
正村ゲージ登場後、競馬や競輪など公営ギャンブルが合法化され、パチンコにおいても風俗営業等取締法の定める「遊技」と位置づけられます。
パチンコは都道府県の許可営業となり、貸玉料金も1個1円に統一されます。
貸玉料金は1個2円に、景品上限額は100円までと定められました。
この事を切欠にパチンコは第一次黄金時代へと突入します。
「オール物」の登場
戦後、ガラス商を営む村竹一氏が名古屋市西区で20台の小さなパチンコ店を開店を大繁盛となります。
正村氏は増台の必要性から自ら遊技機の製造を始め、独自のゲージである「正村ゲージ」を開発。
さらに、正村氏の従兄弟となる長崎一男氏が「オール物」を開発。
これを契機に、パチンコは過去にない大ブームを迎えることになります。
オール10の登場
正村ゲージ開発以降、パチンコは短時間に様々なの技術革新が起こります。
その頃、伊藤寿夫が開発した、どこの入賞口に入賞しても同じ賞球が払い出される「オール10」が登場。
それまでのオール10は、大玉を用いて賞球を払い出す仕組みであった為、実用面では難がありました。
正村竹一直営の遊技場で実験的に大玉を用いずに入賞玉が賞球を切れる「正村式オール10」が実験的に設置されると商品的な価値が高まることになります。
そして「正村式オール10」は全国的に爆発的な人気を呼び、他メーカーは特許申請がされていなかった「正村ゲージ」の釘配列を使いつつ独自の機能を加えて行く事となっていきます。
オール20の登場
1950年に「オール20」と呼ばれる正村ゲージの機械が登場。ホール数も8,400店舗にまで倍増しす。
翌年、警視庁が「パチンコの遊び方」を発表。
この時に18歳未満のパチンコが禁止されることになりますがホール数は約12,000店まで増加。
また全国遊技業組合連合会(全遊連)が発足します。
連発式オール20の登場
1952年に登場の「連発式オール20」が大ヒットし、ホール数は更に42,100店舗まで増加します。
更に翌年の1953年には「循環式1号機」と呼ばれる「上皿付き高速連射機」が登場し、ピーク時には45,317店舗に達します。
「オール20」とは、賞球が20ということで、入賞口に1個入ると19個が下皿に出て来ます。
「連発式オール20」は、菊山徳治氏の創案でハンドルを引くたびに玉が自動的にセットされ、循環式なので一個はそのまま上皿へ戻る仕掛けとなり、「連発式」は、打ち出しハンマーへのルートが完全手動のころよりも進化した自働補給式となります。
この時代が第1次黄金時代と呼ばれパチンコが庶民の娯楽産業として認知されることになります。